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更新日:2022年2月19日

郷土に尽くした苦労人庄屋:梅谷七右衛門清政

梅谷七右衛門清政とその自伝『愚胸記(當家立身巻)』

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『愚胸記(當家立身巻)』(序文)

梅谷七右衛門清政(以下「清政」)は、天和3年(1682)、東本庄村の庄屋の家に生まれました。そして18歳の若さで庄屋を継ぎましたが、その当時、村は決して豊かではなかったようです。

彼はその打開策として新田開発を志し、その成功によって財を成しますが、その財を活用して地域の神社や寺を建て直し感謝されています。

享保17年(1732)、50歳の賀を迎えた清政が静かにその一生を振り返り、自らの署名を記して書き上げたのが『愚胸記(當家立身巻)』で、この書物は、江戸中期の村の姿を、生き生きと現在に伝える貴重な文献資料です。

年齢は満の表記がある場合を除き、数え年の年齢で表記しています。

『愚胸記(當家立身巻)』からみる「苦労人庄屋」梅谷七右衛門清政

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『愚胸記(當家立身巻)』(表紙)

『愚胸記(當家立身巻)』

清政が書き記した『愚胸記(當家立身巻)』には、著者清政の人生哲学、あつい信仰心に支えられた日常生活と家族への想いがつづられています。意外に質素な暮らしぶりの中で神社や寺の修繕などには惜しみなく金銀を使い、困った人にはできる限りの世話をすることなどが書かれており、清政の「苦労人庄屋」としての人間像についても知ることができます。

本文は『愚胸記(當家立身巻)』を中心に説明していますが、一部他の資料も引用しています。

藩公より銀十貫目を借り受ける

清政が庄屋を継いだころ、村は経済的にかなり苦しい状態にありました。清政は新田開発を藩に願い出て工事を進めましたが、その翌年、風害による不作によって米価が高騰。その上、不漁が重なって村に多くの飢餓に苦しむ人が出ました。

清政は困り果てている状態を必死に藩公に訴え、ついに銀十貫目を借り受けました。これは当時の御領分内においては、本当に珍しいことであったと書かれています。

そしてこの銀子は村人達に公平に分配され、村の窮状を救いました。その後、清政は新田開発に熱心に取り組み、5年後にはこの借金を藩に完済しています。

魚問屋「八幡屋」を開業

藩より借りた公的な借金は完済したものの、清政は私的には多くの借財を抱えていました。その大部分は父親の代から受け継いだものでしたが、利子がかさんで家計は苦しかったようです。

そこで清政は高砂の魚問屋から商売の方法を学び、自分の生まれ年の守護神にちなんで屋号を「八幡屋」と定め、魚問屋を始めました。商取引においては、いろいろな工夫をこらして徹底的に無駄をはぶき、ひたすら家業に精励した結果、10年間でかなりの額の借金を完済できたようです。

水害跡の修復と屋敷の創設

清政は家業にも熱心に取り組みましたが、決して庄屋としての村の経営をおろそかにしたわけではありませんでした。

宝永7年(1710)、村の中では屋敷が不足し、屋敷を持てない百姓も多いなか、大水が出て喜瀬川が氾濫し堤や水門が流出しました。清政は藩の命によりその復旧に当たりましたが、この時、5年の歳月とのべ3万人の人足を投入し、河川敷をかさあげして敷地を拡げる工事を行いました。

こうして新しく生まれた屋敷は土地境界を明確にした上で、村内の屋敷を持たない百姓38軒を選んで与え、自立させました。またこれを機会に、村の中にあった三昧(墓地)を川の東に移し、その跡地には新しくお堂(金泉寺)を建て、堂守を置いて朝夕読経をさせたうえ、毎年7月7日には施餓鬼を行って、この地に葬られた人々のための供養を怠りませんでした。

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金泉寺(左)と現在の喜瀬川

氏宮の復興と菩提寺の再建

清政は氏宮(阿閇神社)の復興にも力を尽くしました。享保15年(1730)、阿閇神社の社殿を修復することについて近隣に住む氏子の人々と相談し、費用を分担し工事を行いました。また境内の枯れ木や落葉などを入札にして銀に替え、小松の苗木を植えさせて松林を保護したようです。

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阿閇神社

そして清政は、当時100余年にわたって途絶えてきた神事「秋祭り」を復活させました。文書には太鼓や御輿を新調したとの記録も残っており、この神事は現在も受け継がれており、播磨町では一番のにぎわいをみせています。

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阿閇神社祭礼絵巻:江戸時代・阿閇神社蔵

江戸時代の阿閇神社の秋祭りを描いたものです。庄屋・神主・社僧・氏子らが長い行列を作って宮西のお旅所まで進んでいきます。祭りの風景を丹念に写した貴重なものです。

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現代の阿閇神社の秋祭り:本荘秋祭り屋台保存会提供

また同じころ、蓮花寺がかなり荒廃しており、檀家の人々に呼びかけ再建を志したがあまり協力が得られず、ほとんど独力にて当時妻鹿村にあった廃寺を買い取り、移築のうえ蓮花寺として再建しています。その時、梵鐘が破損していたので鋳直したと書いています。

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蓮華寺

清政は村内ばかりでなく、近在の社寺にも寄進しています。例えば北の小野市にある極楽山・浄土寺です。この浄土寺には国宝の阿弥陀三尊が安置され、西背面よりの差し込む夕日がまさに極楽浄土が再現された感があるとして有名な所です。清政はこの寺に仏教経典最高と言われる妙法蓮華経を納めた塔を寄進しています。小野と阿閇(現播磨町)とは20km以上も離れています。当時は遠い地の梅谷家からの寄進を受けることの是非が議論されていたようですが、寺はこれまでに多くの寄進を受けているとして、その好意を受けたと言われています。

今里庄一郎若年のため、大庄屋代を勤める

享保6年(1721)、大庄屋今里十三郎が亡くなり、子息今里庄一郎が若年のため、藩は清政に大庄屋を勤めるように言いました。しかしこの時清政は今里傳兵衛の恩顧を忘れず、庄一郎を大庄屋に立て、自分は大庄屋代として古宮組の一切を取り仕切りました。

新井用水開削の今里傳兵衛は、万治2年(1659)に亡くなられているので、清政の時の傳兵衛はその子孫にあたります。

この間、組の百姓からは慕われ、藩からもたびたび褒美の言葉を頂いています。また清政自身、「自分がいる限り、藩と百姓との間には絶対争い事は起こさせない」と豪語しています。この言葉は、後年に起こった寛延の大一揆が古宮組を境としてピタリと収拾された事と、関連があるのかも知れません。特に清政が建立した無量寿院の宝篋印塔は、寛延の大一揆の終息と建立年月が一致しているためさらに関連が想像されます。

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無量壽院:宝篋印塔・寛延2年(1749)

そして7年後の1728年(享保13年)、庄一郎が成人したのを機会に大庄屋代の役目を返上することを藩に申し出たところ、藩主はとてもそれを惜しみ、「せめて病身の西本庄村庄屋甚左衛門に代わって東と西の本庄村の庄屋を兼ねよ」との命令を下し、しばらくは両本庄村の庄屋を兼務することとなりました。

質素な私生活と妻への愛情

このように世間からも重んじられ、尊敬される立場に立った清政ではありましたが、私生活においては大変に質素でした。清政は、家ではいつも洗いざらしの衣類を着用し、使用人とも同じ場所で、同じ食事をしました。そして暇をみつけては田畑に出て働き、雨のときは書物を読みふけりました。

清政の愛読書は太平記等の軍書、元享釈書などの高僧伝、法華経などでしたが、特に法華経には興味が深く、朝夕読経を欠かさなかったようです。

そして清政が60歳の秋、貧しい生活をともに苦労してきた愛妻を失いました。以前妻への気持ちを清政は『愚胸記』に次のように書き記しています。

「我妻は家業に精をだし、身持ちも我に順じ、常にみしかき着物を着、立ち居も軽く二季の秋は下女と同じく庭にて立働き、一生の内長き着物は着申さず候、尤娘嫁迄も見習申す所也」

おそらく清政にとっては、かけがえのない良き伴侶であったと思われます。

清政が妻の死を悼み、死後の冥福を祈って造った大きな石仏(三界萬霊地蔵尊)は、260年の歳月を経て今なお野添の無量寿院にあり、私たちにほほ笑みかけてくれています。

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無量壽院:三界萬霊地蔵尊・寛保3年(1743)

梅谷七右衛門孟政と魚介類供養塔

清政は跡継ぎの男子には恵まれませんでした。梅谷七右衛門孟政(以下「孟政」)は8番目に生まれた男の子でした。それまでに生まれた7人のうち、6人までが女の子、残る1人の男児は満3歳で亡くなりました。したがって孟政が清政にとって希望の星であったことは想像に難くないことでした。孟政は元禄8年(1695)の火事で焼失していた地蔵堂と地蔵菩薩立像を再建・修復しましたが、そのわずか2年半後の延享5年(1748)2月、32歳の若さで亡くなりました。残された父親、清政の悲しみがどんなに深かったか、察するに余りあります。彼は蓮花寺に孟政のための供養塔を建て、菩提を弔いますが、2年後の寛延3年(1750)、地蔵堂の境内に魚類成仏の供養塔として立派な宝篋印塔(魚介類供養塔)を建てて魚類の霊を慰めました。或いは息子の若死にが、自分たちの魚類殺生の祟りとでも考えたのではないでしょうか。

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本荘中:地蔵菩薩立像・江戸時代(左)と魚介類供養塔・寛延3年(1750)

清政は郷土に尽くした苦労人庄屋として、波乱の人生を送り、80歳(享年)で生涯を閉じました。

梅谷七右衛門清政年表(PDF:1,045KB)(外部サイトへリンク)

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