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更新日:2020年12月17日

新井開削の父 今里傳兵衛

五ヶ井から分水した新井(しんゆ)

新井は、加古川大堰(八幡町中西条)から取水した五ヶ井の水を分けてもらい、池や田に供給しながら播磨町古宮大池までの14km弱を流れる用水路です。明暦2(1656)年3月に開通しました。

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二代目古宮組の大庄屋

江戸の初め(慶長・寛永1596年~1644年)は、姫路城などの城の建築が盛んに行われましたが、寛永の大飢きん(寛永19~20(1642~43)年)を境に、干ばつや水害対策、新田開発などの農業政策へと移っていきました。古宮組19か村の大庄屋で古宮村(現播磨町)の庄屋を兼ねていた今里傳兵衛が、姫路藩主榊原忠次に新井開削を願い出たのは、政策転換から10年余りが経った承応3(1654)年のことでした。

承応3年の大干ばつ

この年は大干ばつで、春と夏に雨が降らず、池や野井戸の水は干上がり、田は地割れして苗も枯れ、わずかにとれた米もほとんどがくず米で、来年の種籾さえありませんでした。これでは餓死者が出ると思った傳兵衛は、多年の念願を実現させる一大決心をします。

傳兵衛は、現地を何度も歩いて経路や高低差、利用できる水路などを調べました。そして、水を利用する23か村の庄屋たちを自宅に集め、苦労のすえ作り上げた絵図面を広げて水の恵みを説明しました。庄屋たちは、その計画に心打たれ、全員が陳情書に署名して協力を誓いました。

加古川下流農業用水給水区域図

身命をかけた新井開削

難工事は、西ノ山や日岡山山麓の固い岩盤削り、喜瀬川の底に水を通す埋樋(うずみび)などで、その上、加古川の台地約10kmに傾斜がほとんどなく逆勾配もあったので、満水にしなければ水が流れないことでした。傳兵衛は、この計画を藩主忠次に願い出たとき、「新溝でもし水が流れないときは、家族もろとも極刑にされても構いません」と断言し、早期の工事着工を強く要望しました。傳兵衛の身命をかけた計画に感銘した忠次は、直ちに測量を命じ、藩の事業として着工させました。秋も深まっての陳情にもかかわらず、年内に設計を終え、新年早々着工できたのは、傳兵衛の綿密な計画があったからだといわれています。

傳兵衛は、連日陣笠をかぶって水路を見てまわり、夜も提灯を持って検分したと伝えられています。工事には、藩内全域から延べ16万4千人(8千人とも)もの人足が集められ、わずか1年余りで通水を成しとげました。一日平均400~500人の人足には、藩から米が支給されました。

開通のお礼に傳兵衛が参上したとき、藩主忠次はその功績をたたえ、望みを聞きました。その際、「大変な恩恵をいただき、欲しいものなどございません。新溝がいつまでも流れ続けることを心から願っています」と答えています。

埋樋

古宮薬師堂に眠る傳兵衛

傳兵衛は、新井に水が流れてから3年後の万治2(1659)年11月12日(12月25日)に亡くなり、50歳だったといわれています。今里家の詣墓は、もと秋ヶ池西南の願満寺にありましたが、明治初めに廃寺となり古宮薬師堂へ移されました。傳兵衛の墓は、願満寺では後妻さんと夫婦連記であったようですが、移設時に塔身だけを造り替え、先妻・後妻と三人合祀にしています。

傳兵衛の墓と解説板

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所属グループ:播磨町郷土資料館

住所:加古郡播磨町大中1丁目1番2号

電話番号:079-435-5000

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