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更新日:2020年8月1日

令和2年度平和展

播磨町は昭和57年に採択されたヒロシマ・アピールに賛同し、「核兵器廃絶のまち宣言」を行っている非核宣言自治体の一つです。後世に戦争や核兵器の恐ろしさを語り継ぐために広島平和記念資料館から借り受けた資料を紹介します。

令和2年度は新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、人が集まる場所での展示ではなく、インターネット上での『Web平和展』として開催します。

期間:令和2年8月1日(土曜日)から8月31日(月曜日)

『基町高等学校の生徒と被爆体験証言者との共同制作による「原爆の絵」』

    広島平和記念資料館では、広島市立基町(もとまち)高等学校普通科創造表現コースの生徒と被爆体験証言者が共同して「原爆の絵」を制作しています。播磨町令和2年度平和展では、8点のデータをお借りしました。被爆体験証言者と高校生のコメントと共に「原爆の絵」をご観覧ください。

    (ここに掲載する画像はすべて広島平和記念資料館に著作権があります。ダウンロードや二次利用はできません。)

    現在、完成している137点の絵は広島平和記念資料館のホームページでデータベースが公開されています。

広島平和記念資料館URLhttp://hpmmuseum.jp/(外部サイトへリンク)

 

 

 

「閃光」

閃光
笠岡貞江(被爆体験証言者)小川美波(68回生)
平成27(2015)年度制作
油彩画(F15号)

描いた場面の説明
原爆投下直後。自宅屋内にいた笠岡さんが見た赤い光と、爆風によって割れ、飛び散る窓ガラス。

生徒のコメント
最も苦労したのは、この場面を笠岡さんご本人が目の当たりにしていないため、何をどのように、どこまで描けば良いのか、すべて自分で考えて描かなければならなかったことです。
光の色だけ「日の出のような色」というアドバイスを頂いていましたが、ガラスの破片や陰影を描くのは、手探りの作業となりました。
お話を伺いながら、原爆の強烈さを強く感じました。鋭く差す光、爆音、爆風と、投下された直後の惨劇…。それら全てを一瞬のうちに多くの人びとの脳裏に焼き付けた原爆という凶器に、私は恐怖と憎悪の念を抱かずにはいられないのです。

被爆体験証言者のコメント
光った瞬間の爆発音・爆風によって粉々になったガラスの破片が飛んで来た事、言葉で言い表すのも難しいのに絵に画いてもらえて嬉しいです。どのように出来るのかワクワクしていました。
画くのにご苦労かけたと思います。この絵の証言をする時、聞いて下さる人が恐ろしさを共感してくれることでしょう。ありがとうございました。

「暗闇の中で燃える小屋」

暗闇の中で燃える小屋
小倉桂子(被爆体験証言者)桂木晋作(71回生)
平成30(2018)年度制作
油彩画(F15号)

 

描いた場面の説明
爆風によって飛ばされ、牛田の家の前の道路で数分気を失っていた。しばらくして気が付いたとき周りは真っ暗になっていたが、遠くで納屋の藁屋根が燃えていた。「いったいどのくらい気を失っていたのだろう」と思う。

生徒のコメント
私はこの取り組みに参加して今回で二回目です。昨年とは違い、今年は本を読んだり、写真を見て戦争の背景を勉強したりしました。この絵を使って小倉さんの証言活動に役立ててもらい、また色々な人に見ていだだきたいです。

被爆体験証言者のコメント
私の心を代弁してくれる基町高校生という伝承者ができて嬉しく思います。世界に私の思いを伝えてくれると感じました。最も分かりやすい絵という形で、この絵を日本や世界の隅々のどこかで多くの人に見ていただくことができます。高校生が描く絵は表現が優しく伝わりやすいと思います。一番大切なのは次世代を担う若者たちの想像力と創造力であると感じます。彼らの感性を通して当時の惨状が伝わってきます。

 

「焼けた電車内、逃げる間もなく死んでいった二人の亡骸」


焼けた電車内、逃げる間もなく死んでいった二人の亡骸

浅野温生(被爆体験証言者)桐林勲(70回生)
平成28(2016)年度制作
油彩画(F15号)

描いた場面の説明
十日市町あたりで爆風により脱線し、道路脇で焼けて鉄骨だけになった電車内。座席があった付近に乗客が2人、骨になった状態で並んでいた。(爆心地から5~600メートルの場所)

生徒のコメント
浅野さんの様々な被爆体験談を聞き、その場面を絵として後世へ遺すこの取り組みを通して、戦争の悲惨さや人間として持っておくべき大切な思いを再認識しました。
参考になる資料が少なく、焼けた電車の内装は特に描くのが難しかったですが、浅野さんから多くの助言をいただき、ここまで完成させることができました。ありのままを絵にすることができたか少し不安ですが、これからはこの絵を、様々な場所で活用していただきたいです。

被爆体験証言者のコメント
72年も前の歴史みたいな話なので、言葉で伝える難しさを実感しました。地獄絵の様な体験は、当時の時代、色、死臭、火傷ではみ出した内臓が、焼けトタンの上で、ボコンボコンと煮えている音など説明しても、画像化するのは制作する諸君にとっても難しかったと思う。

 

「死んだ我が子を背負う若いお母さん」


死んだ我が子を背負う若いお母さん
岸田弘子(被爆体験証言者)津村果奈(68回生)
平成27(2015)年度制作
油彩画(F15号)

描いた場面の説明
避難の列の中に、若いお母さんがおられました。血まみれの顔で、誰が見ても既に死んでいる子どもを背負っているのです。「誰か、この子にママ(ご飯)食べさせてください。水を飲ませてやって下さい」と一人ひとりにすがるのです。
でも誰にもどうしてあげることもできません。自分のことを守ることで精一杯だったのです。

生徒のコメント
昨年描かせていただいた原爆の絵の中にも、母親と赤ちゃんのいる場面があり、その絵では「亡くなった母親にすがりつく赤ちゃん」を描きました。今回の絵では、それとは反対に「亡くなった赤ちゃんを連れた母親」を描かせていただきました。2枚の絵の親子はどちらも、一瞬にして起きた相手の死を受け入れることができない状態でいます。
この絵を描いて、何の罪もないたくさんの親子もまた原爆の犠牲になったということを改めて知り、深い絆で結ばれた仲を一瞬にして奪った原子爆弾への怒りを覚えました。もう二度と、このような悲しい光景を生んではならないと強く思います。

被爆体験証言者のコメント
この若いお母さんの声なき叫びがきこえます。「目を覚ましてよ。起きてよ」と私の心が痛み続けています。二度とこのような苦しみは許してはなりません。
「原爆の絵」の作品を通じて、生命の尊厳、真の平和とは何か?あらためて考える機会となりました。
凄い作品にして頂き、誠にありがとうございました。

「最も大切なものを」


最も大切なものを

原田浩(爆体験証言者)富士原芽依(71回生)
平成30(2018)年度制作
油彩画(F15号)

描いた場面の説明
爆心地から2kmの広島駅(全焼全滅区域)で両親とともに被爆しました。
駅舎の陰にいたので原爆の直撃から免れ、さらに背後から襲ってきた火焔からも奇跡的に逃れることができました。
あの日、幼い私を疎開させるため、父母は見たこともない桃を持たせてくれました。
避難の途中、皮膚が熔けるなどひどい被害を受けて道端にうずくまる親子連れから水がほしいと懇願されました。私が手に持った桃を目敏く見つけた母親が子どもたちに与えて欲しいとせがみました。
しかし、日頃、食べられなかった大切な桃を手放すことはできませんでした。

生徒のコメント
原田さんは被爆された当時6歳で、そんな幼い子どもが目を背けたくなるような恐ろしくショッキングな出来事を体験したのかと思うと、この1年間の制作を通して何度も辛く悲しい気持ちになりました。道端にうずくまる親子も、後ろを彷徨う大怪我をした人にも、原田さん自身にもそれぞれ当たり前の幸せな日常があり、それを一瞬で奪ってしまうような戦争が再び起こらないように祈りを込めて描きました。この絵が戦争や平和について考えるきっかけのひとつになるといいなと思います。

被爆体験証言者のコメント
私の心深くに刻まれ、決して忘れることのできない場面です。幼いとはいえ、自分自身の事しか考えない行動が悔やまれ、今まで語ることのできなかった辛い思いです。
富士原さんは私が手放したくないと、身を引いた瞬間を的確に描いてくれています。
高校生たちが被爆者の悲惨極まりない体験をしっかり受け止め、描き残してくれることが、次世代への核兵器廃絶を訴えるものとなるでしょう。

「家族を火葬する人たち」

家族を火葬する人たち
浅野温生(被爆体験証言者)亀髙菜那(70回生)
平成28(2016)年度制作
油彩画(F15号)


描いた場面の説明
皆実町の被服支廠近くの蓮田のほとり、やっと見つけたわが子の死体を、道路わきで火葬にする遺族。原爆直後、お坊さんも寺も火葬場もなかった。(爆心地から2.5キロメートルの場所)

生徒のコメント
この絵は、原爆によって亡くなった家族を遺族が火葬している場面なのですが、私は実際に家族を火葬するという経験をしたことがないので、家族を焼く人の悲しみや、原爆で家族を失ったことへの悔しさ、また、そういう状況に置かれた人はどのような表情をするのかといったことを想像するのに苦労しました。
悩んだこと、苦しんだことはたくさんありましたが、今は広島で生きる人間として「原爆の絵」の制作に関わることができて良かったと思っています。

被爆体験証言者のコメント
72年も前の歴史みたいな話なので、言葉で伝える難しさを実感しました。地獄絵の様な体験は、当時の時代、色、死臭、火傷ではみ出した内臓が、焼けトタンの上で、ボコンボコンと煮えている音など説明しても、画像化するのは制作する諸君にとっても難しかったと思う。

 

「再会」

再会
梶本淑子(被爆体験証言者)三戸奈津美(61回生)
平成20(2008)年度制作
油彩画(F15号)

描いた場面の説明
被爆から三日が経ち、友人と一緒に自宅へ帰る途中、探しに来ていた父と再会した場面。
生きて戻ってくることができた実感と喜びを描いた。

生徒のコメント
被爆体験とは、直接被爆した人たちだけのものではなく、彼らと関わった広島全体が共有しているものなのだと思いました。何が起こったのかも分からない現状の中、ただ自分の大切な人を案ずることしかできない人々は、自らが直接被爆していないとはいえ、その体験が心に深く刻みこまれたのだろうと、この絵描く中で考えるようになりました。
また、そういった中で、自分の家族と無事に再会できたことは、とても奇跡的なことだったはずです。私は、この絵の抱き合う親子から、生きているという実感と喜びを、見る人にも感じてほしいと思います。そして自分自身の中にもそれらを見つけて欲しいです。それが平和への小さな一歩になるのではないかと、私は考えます。

被爆体験証言者のコメント
高校生として大切な勉強の合間に制作してくださって、大変だったと思います。本当にありがとうございました。生まれてもいない時代の、ましてや人類の最悪の状態の描写をよくここまで描いてくださったことに感動しました。大きかった父親に抱かれたあの時の喜び、そして、安堵感が絵にでていて、この絵を見るたびに父に会えるようで、嬉しい気持ちになります。
原爆投下から三日目の午後の町の風景、空の色、全くこの通りでした。迫力ある立派な絵をいただき、本当に感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

「被爆前の産業奨励館」

被爆前の産業奨励館

岸田弘子(被爆体験証言者)福本弥生(教員【嘱託講師】)
平成27(2015)年度制作
油彩画(F15号)

 

描いた場面の説明
1915年(大正4年)8月「広島県物産陳列館」として開館し、物産の展示、即売、美術展覧会や博覧会などが行われていた。この建物は1933年(昭和8年)には「広島県産業奨励館」と改称され、戦争中は官公庁などの事務所として使用された。優雅な姿が広島の誇りとして存在していた。

制作者のコメント
現在は原爆ドームとして世界中の人々に知られているこの建物が、原爆投下前はとても美しい姿をしていたことはあまり知られていないように思います。今、平和公園になっている場所にも、たくさんの民家や商店が立ち並び、多くの人びとが生活を営んでいた場所でした。
そのような人たちの命や生活の全てを一発の原子爆弾が奪ってしまったということを私たちは忘れてはならないし、原爆のもたらす甚大な被害を知らない多くの人たちに伝えていかなければなりません。
この絵を描くことで、原爆被害の伝承の一端を担うことができて嬉しく思います。

被爆体験証言者のコメント
広島の誇りとして存在していた建物を再現して頂き、一層悲惨さを呼び起こします。
「絵」を通して記録が残され、命の尊さが世界中の人々の心に届くことを祈ります。「絵」が持つ力、「問いかける力」に感動です。

 

お問い合わせ

所属グループ:播磨町企画グループ

住所:加古郡播磨町東本荘1丁目5番30号

電話番号:079-435-0356

所属グループ:播磨町福祉グループ

住所:加古郡播磨町東本荘1丁目5番30号

電話番号:079-435-2362

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