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ジョセフ彦

更新日 2008年04月01日

ふるさとの先覚者 新聞の父「ジョセフ彦」

播磨町に生まれ、わが国で最初に新聞を発刊し、「新聞の父」と呼ばれている人、その人こそジョセフ彦である。
今、ふるさとの先覚者として、彦のあしあとをたどってみた。

ジョセフ彦の肖像写真

天保8年、古宮に生まれる

ジョセフ彦は、天保8年(1837)8月21日、播磨町古宮に生まれ、本荘の浜田で育った。幼名を彦太郎といった。
嘉永3年(1850)10月29日、江戸見物を終え、故郷への帰途、遠州灘に突発した暴風が、13歳の少年彦太郎を、わが国の″新聞の父・ジョセフ彦〃に出世させた。
太平洋を漂流すること50余日、彦太郎ら17人はアメリカの商船に救われ、翌嘉永4年2月にサンフランシスコに着いた。アメリカは、漂流した彦太郎らを日本へ送り帰し、国交開始のきっかけをつかもうと、翌嘉永5年3月、マカオでペルリの東洋艦隊に乗せる手はずをとったが、ペルリの来航が遅れたため、彦太郎は再びアメリカに渡った。

驚異の国・アメリカ

サンフランシスコに着いた彦太郎は、税関長サンダースに可愛がられ、ワシントンや二ユーヨークに連れていってもらった。
彦太郎は、二ユーヨークで初めて電信・ガス燈・汽車を見て驚き、また、ワシントンでは、時の大統領ピヤ-スに紹介された。これは、アメリカ大統領と正式に会見した最初の日本人という栄誉であった。

ジョセフ彦と名乗る

その後、彦はサンダースの援助でボルチモアのミッションスクールに入り、聖書・英語・算数などを学んだ。
嘉永7年(1854)10月30日、熱心なキリスト教信者であったサンダース夫人の勧めで、カトリックの洗礼を受けた。この時、神父あげたいくつかの名前のうち、耳に快く響いた「ジョセフ」のクリスチャンネームを用い、ジョセフ彦と名乗るようになった。また、帰国したとき、アメリカの国籍をもっていたほうが得策だとサンダースに勧められ、安政5年(1858)6月30日、日本からの帰化第一号としてアメリカの市民権を得た。

開国日本に活躍

安政6年(1859)6月、21歳の青年紳士となった彦は、神奈川のアメリカ領事館通訳として、ハリスに伴われて開国した日本に帰ってきた。
幕末外交界の第一線に登場した彦は、日米修好条約の実施、幕府の遣米使節の派遣などに奔放した。しかし、攘夷浪人から外国人としてねらわれ身辺が危くなったので、彦は、文久元年(1861)に三度日の渡米をした。

リンカーン大統領と会見

この渡米中に、彦はリンカ-ン大統領と会見した。リンカーンは、大きな手を差し出して握手し、夜明け前の日本について様々なことを尋ねた。こうして彦は、われわれには歴史上の人物であるリンカ-ンと握手したただ一人の日本人という記録をもった。
その後、彦は、リンカーン直伝の民主主義を、木戸孝充・伊藤博文に伝えた。慶応3年(1867)に、長崎時代の彦を訪ねた木戸と伊藤は、米英の歴史・制度・政治などを質問し、彦からアメリカの民主政治の機構を聞き、驚異の目を見はった。

“新聞の父”

南北戦争の動乱をあとにして、再び日本に帰った彦は元治元年(1864)、わが国最初の新聞「海外新聞」を発刊し、″新聞の父″の地位を不朽のものにした。「海外新聞」は、二つ折りの半紙4・5枚をこよりで仮つづりしたもので、貿易の状況と相場といった各国の二ユース・アメリカ史略といった読み物、在日外国人の広告などが載っていた。「海外新聞」は、慶応2年(1866)12月に彦が長崎に移るまで発行され、手書き時代から木版印刷に移ったのちでも、26号を数えた。
その後も彦は、長崎で英国商館と鍋島家との間をあっせんし、高島炭坑の共同経営を成立させたり、大阪造幣局を作る世話をするなど、新生の胎動を続ける日本で活躍している。
彦の文化人としての業績に、二つの著書の出版がある。一つは文久3年(1863)に出版した「漂流記」で、もう一つは、彦の英文自伝「TheNarrativeofaJapanese」である。

浄世夫彦の墓

浄世夫彦の墓というのが、東京青山の外国人墓地である。明治30年(1897)12月12日、60年の生涯を閉じた彦が安らかに眠るところである。

問い合わせ

  1. 部署名:郷土資料館
  2. 電話番号:079-435-5000
  3. ファックス番号:079-436-0135
  4. メールアドレス:siryoukan@town.harima.lg.jp