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今里伝兵衛

更新日 2008年04月01日

新井水路開削の今里傳兵衛新井(しんゆ)水路全図

古宮組大庄屋今里傳兵衛重幸(しげゆき)が、一命をかけて姫路藩主榊原忠次に願い出た「新井(しんゆ)」がやっと開通し、住民たちが涙して、その水を迎えたのが明暦2年(1656)3月であった。それから350年、命の水を与え続けた新井と恩人今里傳兵衛や当時の人たちを偲んでみよう。

大庄屋今里傳兵衛

姫路藩の村を約27の組に分け、各組に20前後の村を置いた。組の代表が大庄屋で、大庄屋の管理のもとに村々の庄屋がいた。今里傳兵衛は古宮組一九か村の大庄屋で、古宮村庄屋をかねていた。今里家は代々続いた大庄屋で、父に続いて二代目である。

傳兵衛は、念願の新井に水が通ってから3年後、万治2年(1659)に亡くなっている。50歳だったといわれている。

墓は古宮薬師堂墓地にある。

新井

現在の加古川大堰辺にあった平松井堰平から抜き出した加古川の水を、田に入れる水路網と組織を「五ヶ井(ごかのい)」といった。加古川と別府川の間の自然の水路網を利用し、五つの地域が協力していた。その組織は戦国時代(16世紀ころ)にはできていただろう。

五ヶ井の水の一部を加古川堤防の東で分水させてもらい、播磨町古宮の大池まで溝を掘って流し、途中の加古川市野口・平岡・別府各町と、播磨町の区域を灌漑するのが新井である。全長13キロメートル余、灌漑面積約600ヘクタール、米の石高(こくだかで約7000石。)

新井とは新たに作った溝(井)で、「い」がなまって「ゆ」になったのであろうが、温かくなった「ゆ」が来るとも言ったので、両者の混合かと思われる。

承応3年の大干ばつ

加古川下流農業用水供給区域図

承応3 年(1654)、播磨国のあたりは春から真夏にかけてほとんど雨が降らなかった。池の水に頼っていたこの地域は、少ない水でなんとか田植えはしたものの、後の水が続かない。田は次第に乾いて割れ、しおれたり枯れたりする稲が続出した。

農民たちは、池の底を掘ったり、田の隅に井戸を掘ったりして、少しの水でも田に入れ、必死で枯れるのを防ごうとした。

この年、わずかにできた米もほとんどが(屑米(くずまい)程度で、来年の種籾(たねもみ)さえなかった。この地域では、江戸時代のうち、この年だけは藩も「年貢(なし」(免税)にしなければならなかった。それほどひどかったのである。

ところが、西隣の別府川と加古川の間では、多くの田でいい稲穂が垂れていた。姫路藩の役人を通じて種籾だけは五ヶ井から分けてもらい、稲作を続けることができた。

ちなみに、五ヶ井では必要な水が流れてくるので大きいため池はなかった。

 

五ヶ井の水を!平松井堰と新井分水口見取図


傳兵衛は、「五ヶ井の水を分けてもらう」というかねてからの念願を、この際実現させようと決意した。百姓たちが水を求めて毎日汗を流しているとき、それを励ましながら、現地を何回も歩き、経路・高低差・既存水路との関連などを調べた。

秋になってから傳兵衛は、水を利用できる二三か村の庄屋たちを自宅に呼び集めた。坂元・天王寺(良野)・細田(良野)・長砂・古大内・二ツ屋・坂井・一色・中野・八反田・別府・西脇・宮西・本庄(1670年から東本庄・西本庄に分村)・宮北・古向(古田)・経田(古田)・二俣・山之上・大澤(大中)・東中野(大中)・野添。それと傳兵衛自身の古宮。

上のうち、坂元・天王寺・細田・長砂各村は寺家町組、別府は高砂組で、他は全部古宮組である。これらの村々が組の結束とは別に、「新井郷」という固い結束をするようになる。(なお、二子村は当時幕府領であったから入っていない。)

傳兵衛は庄屋たちに自分の作った絵図面を見せ、計画を説明し、みんなの意見を聞いた。庄屋たちはその計画に感動し、感謝し、一緒に署人して、藩に陳情することにした。

陳情の際、傳兵衛は「この新溝でもし水が流れないときは、家族もろとも極重の罪科をこうむっても、決してうらみや悔いを抱きません」と断言した(『姫陽秘鑑』)。

 

藩主榊原忠次の決断と五ヶ井の条件


藩はすぐさま専門役人に測量や設計をさせ、夫役(人数・費用などを計算した。藩主榊原忠次は、この溝を作ることは「加古郡永久の幸いだ」として、領内全体から夫役を集め、早急に完成させるよう命じた。

驚くべきことに、秋も深くなってから陳情したのに、その年の内に調査を済ませ、五ヶ井に本流から取水後の溝で分水するよう命じた。傳兵衛の計画が綿密なものであったことを示している。

五ヶ井は昔から水利用の権利は持っていた。しかし、川・溝そのものは藩の支配だし、周辺領民との重要な関係も藩が決定していた。

従って、五ヶ井は拒否できないのだが条件をつけた。

分水量は取水量の1/6まで。

今後の夫役や経費も1/6一負担。

もし干ばつで用水不足になれば、五ヶ井を優先して分水口を堰き止める。

その他分水口やその周辺を新井側が勝手に触らない。

などである。

17世紀後半は全国的に新田大開発や、利水治水事業がなされ、小さい農家が生活していけるような社会に整備されていった。加古郡でもこの半世紀に開拓の新田村が一八村も作られている。こうした動きのなかで、新井開削はその先駆けとなるものであった。

なお、大干ばつにより米がとれなかった村々で、餓死などが出ないよう藩が考慮したと考えられる。工事の夫役には、1日7合5勺(1.35リットル)の米が支給されたからである。

 

難工事と勾配の無さ

明暦元年(1655)に改まると1月16日から着工した。播州加古郡新井記略碑

直接の難工事はつぎの通りである。

西ノ山と日岡山のふもとの岩盤削り。(たき火で石をもろくしてから削り取る)
曇川・白ヶ池川(北野川)との合流ヵ所と、増水時各要所の刎所((はねしょ木造放流所)。
西条~二塚間低地の置き堤(田より高所の溝)。
喜瀬川川底下を横断する埋樋(うずみび木造U字管水路)。
しかしながら新井全体のむつかしさは、勾配(水路の高低差)がほとんどないことであった。分水口で標高12メートル弱、全長約13キロメートル余の末端古宮大池入り口で標高約5メートル。そのうち、現加古川市内約10キロメートルは標高10メートル±1メートル程度であって、当然逆勾配のヵ所が各所にある。

五ヶ井の勾配はどうか。同じ分水口から鶴林寺まで7キロメートル余で、標高は3メートル余に下がる。したがって、五ヶ井の内新野辺あたり以外は水がありさえすればどんどん流れるが、新井は、分水口を満水にしないと流れてくれない。

なぜそうなったのか。野口段丘といわれる台地の先端を、高度を保ちながら流すとそうなってしまう。低いほうに流すと、五ヶ井の溝や別府川に入ってしまうのである。

 

新井の修理・改良

工事は翌明暦2 年(1656)3月に一応終わり、通水できた。夫役総数は延べ16万4千人(8千人とも) と書いている。一日平均400ないし500人、必要なときは倍も従事しただろう。

新溝の通水を、傳兵衛はもちろん、一同は泣いて喜んだだろう。ただし、溝はほとんどが土を掘ったままであるから、大雨が降るとすぐ修理が必要になる。樋門、刎所、埋樋などは木造であるから、大水の損傷はもちろん、10余年で腐食の取替えがくり返された。

たとえば、喜瀬川の埋樋が石に変えられたのは天保元 年(1830)ころであるから、その間に約11回作り直しをしている。

加古川本流の堰は丸太の木枠に土俵を入れるのだが、毎年春の決まった時刻にいっせいに積みなおす大工事がある。年によるが総数数千人、新井郷だけでも数百から千人もでた。本流の堰を石にしたのは文政10(1827) 年ころである。

岩盤の削りなおしや、分水口の改造・位置替え、その他の改良工事が再々行われた。水の管理方法もたびたび改めている。

 

新井と池は一体

新井開通後、各地にあった小さい池・沼は新田となっている。しかし、主要な池は、藩が新田にするよう勧めるのに抵抗()し、ほとんどは現代まで残してきた。勾配のなさを配慮(したからである。

水は上流から順次池に入れ、池を経由して田へ入れるのが大部分であった。しかし新井溝の海側に池を持たない村は、溝から直接田へ入れた。

新井溝の山側にある池には水を入れられなかったが、海側の田へは新井の水が使えたので、山側の池も負担が減少した。

ついでに言うと、新井郷の村が持つ主な池は、早いのは古代後期から、大部分が中世(12~16世紀)に、一部が近世に作られたと思われる。はじめから大きい池ではなく、修理のつど大きく丈夫になってきたのであろう。

 

新井開通前後の年貢の比較

一色村と坂井村の年貢命令書を要約すると、新井開通の1656年から10年程で年貢率(本田石高に対する本年貢の比率=割)が急ましている。通水・生産が安定してきたあらわれでもあるが、藩の投資もけっこう元を取って、賢い事業であったといえる。幕末までの数字を示そう。

1615~53年  0.733~3.8割の間、平均3.01今里傳兵衛夫妻の墓

1654年         年貢無し

1655~63年  4.0~5.1割へ順次増加

1664~81年  5.5割(2年だけ5.4割)

1682~1868年 5.6~5.7割 (災害年は減る)

 

傳兵衛の心からの願い

新井が開通したとき、傳兵衛らは藩主榊原忠次に直接お礼を申し上げる機会を与えられた。忠次が傳兵衛に、褒美に望みどおりの物をとらせるから言え、といった。傳兵衛は、願いどおりの新溝を作っていただき、たいへんなご恩をすでにいただいている。望む物など毛頭思ってもいない。「なにとぞ、新溝が永代に異変なく使われていくよう、それだけが心願であります」と返事した(『姫陽秘鑑』)。

 


主な史料

今里傳兵衛夫妻の真正の詣墓…古宮薬師堂墓地
和田宋允「新井水道記」…播磨町郷土資料館(漢文の解説書)
「新井記略碑」…播磨南中学校北隅(享保五年干ばつ時の感謝記念碑)
研究解説書『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会刊、藤原・村津・山口共著

問い合わせ

  1. 部署名:郷土資料館
  2. 電話番号:079-435-5000
  3. ファックス番号:079-436-0135
  4. メールアドレス:siryoukan@town.harima.lg.jp